カレンダーと写真の濃密な偽装関係

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2015年になりました。今年も僕をよろしくお願いいたします。さて、今年は初めて帰省せずにいたため、いささか暇でした。非日常的な風景があるかと外へ出てみましたが、そこは東京。例えば、ひとけの全くない都市風景のイメージなどとは全くかけ離れた、想像の範囲内の正月的な東京があっただけでした。初売りに並ぶ情熱も消え失せた昨今、せめて正月気分だけでも味わうかとふらりと浅草へ出かけてみたのが運の尽き。上の写真の通りでした。結局、並ぶだけ並んで浅草で使ったお金は、変に生姜の入った不味い甘酒代200円のみでした。

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そんなことがあって家へ逃げるように引き返した僕はひまつぶしにカレンダーを作りました。フォトショでちょちょいとやって、プリンタでA3用紙をガーッとやりました。これからまとめて、画鋲を止めるところをつけて完成です。2014年のうちにやっておくべきでしたが、いつも通りつくろうつくろう、と思ったままいつの間にか年月が去って行ったのでした。なぜカレンダーか、ということは非常に難しい問題です。それには、カレンダーというものの本質を追求しなければなりません。考えれば考えるほど、不思議ですね、カレンダー。

まず、どんなにいい写真(もしくは絵とかでもいいんですが、まあ、自分のやってることに合わせて写真にします。絵を描いている人は写真を絵と読み替えてもさほど差し支えないはずです)であろうと1ヶ月、もしくは2ヶ月の寿命です。写真の寿命が写真自体にあるのではなく、月日の単位によって機械的に決められます。もちろん、気に入った人は切り取ったりして延命処置を行うでしょうが、所詮はカレンダー、写真集やプリントに比べて紙の質も悪いため、比較的大事にはされません。むしろ、カレンダーを切り取って額に入れて飾っている人を僕は今まで見たことがありません。

また、内容についてもだいたい、季節に合わせた写真になります。例えば、4月には春らしい写真、7月は夏を感じる写真です。しかし、それらの写真はどんなに早くとも1年前に撮られた写真なのです。あたかも夏に夏の写真がカレンダーになっていることから現在性を感じますが、その実は昨年の夏に撮られた写真になるわけです。

そして何より、写真とカレンダーがデザイン的にちぐはぐであって、どこにも一体感がないのです。それぞれが意味的に単体で成り立つように独立しているため、主従関係のバランスも曖昧です。毎月めくる楽しみこそあれ、写真は写真で存在しているため、カレンダーとしての機能と全く無関係です。

他にも色々とカレンダーの不思議なところはありますが、まずはこういった疑問点から、『写真集のようなカレンダーは存在し得ないか?』と思ったのが最初でした。昨年の夏くらいです。そこから、まずは2015年の分を作ってみれば色々と分かるかもしれない、という考えに至り、今回作成してみました。オーソドックスなカレンダーです。作ってみれば分かるかと思いましたが、まだ何も次のアイデアが浮かびません。毎月眺めていると分かってくるのかもしれません。ただ、一点、今現在すでに気づいていることがあります。表紙を作り忘れました。こういったカレンダーって日本にしかないのでしょうか。

2015-01-04 | カテゴリー 写真 | タグ