街中と肖像権

スナップ写真の撮りにくい世の中です。ところが、一方で誰もが気軽に写真を撮れるように、そして誰もが気軽に(主にwebで)それを発表、公開しているような社会でもあります。この矛盾しているような状況を前に、スナップ写真を撮る上で肖像権に対する理解や意識は欠かせないもののように思えます。今回は自分なりに調べ、考えたことをつらつらと書き記します。結論まで遠回りはするでしょうが、僕の考えをかいつまんで書くよりは包括的に(かつなるべく、可能な限り理路整然と)書いていった方が誤解が生じにくいかと思うのです。新宿から東京へ行くには多くの手段がありつつも、池袋、日暮里、上野を経由する、という条件を加えて絞り込むように。
参考にしたのは元はいくつかのwebと裁判判例、そして書籍「撮る自由(Amazon)」 、あとは実体験。最後大事ですね。
まずは「肖像権」という説明を求められても感覚的でしかないその単語の説明から。肖像権とは広義に2種類ある、というのは「肖像権」という単語を調べるとまずどこでも解説していること。著名人などにある「パブリシティ権」と一般的に想像しうる「人格権に基づいた肖像権」です。ここではパブリシティ権については省きます。それ自体はさほど複雑なことでもなく、有名人の写真とか使って勝手に商売とかするなよ、ということですし、僕らがその問題に関わることもほとんどないでしょう。
もう片方の「人格権に基づいた肖像権」(以後肖像権という単語ではこちらをさすことにします)。これが撮影する側とされる側での問題になりうるものです。まず、2013年現在では肖像権というものに関しては法律上は記載がなく、したがって判例を参照するしかない状態です。
有名な判例がファッションサイトでの無断掲載の件です。「SEX」とプリントされたシャツを着て(ヴィヴィアンだかD&Gのものらしい)銀座を歩いていたところ、撮影され、ファッションサイトに掲載された、というもので、ファッションサイト側に35万円の支払い命令が出ています。某大手掲示板にそれが貼られて発覚したとかで、ずいぶんと板では誹謗中傷を受けたようです(最近ではリモート操作されるウイルスのアプリケーションのダウンロードリンクも貼られていたことがわかったとか、ずいぶんと恐ろしい掲示板もあるのですね、おぉ怖い)。ちょいと探してみるとその元画像も未だ見つけることができるのですが、これは確かにひどい。まず写真に水平が出ていない、写真全体のバランスも構図も崩れてる、ということではなく、明らかに本人の了承を得ず望遠レンズで撮ってます(ちなみにそのサイト自体は今は別のものになっていますが、今度はこれでもか、というくらい同じ構図で撮ってますね)。撮影後に掲載の了承を得てなかったのでしょうね。ついでに撮影自体コソコソ撮ったのがなんとなくわかります。これが夜だったら芸能人のスキャンダルのようです。
さて、ここで、被告側の行為を撮影と掲載(公開)に分けてみます。すると、問題とされていたのは後者の方で撮影自体は特に問題とされていなかったことがわかります。そう、撮影自体は問題とされていないのですね。一部のサイトなどでは撮影=公開のごとく、撮影をすることが肖像権を犯すことに直結するかのように理解力のないことを書いています。しかし、実際に一般の撮影自体が問題になったことは判例では見当たりません(盗撮除く)。大掛かりなカメラを持っていて職質されることはありますが、堂々としていて問題ありません(盗撮除く)。その意味では、撮影においてはむしろコソコソとするよりしっかりと意思を持って撮るべきです(盗撮除く)。一眼レフはしっかりホールドしましょう。左肘は浮かせない。自分が三脚になった気持ちで。例えノーファインダーだろうと、頭の中にはしっかりと画を描く(あるいは確信的に描かない)。どうでもいいですが、僕は500mmの超望遠で街中で撮っていたことはありますが、職質はされませんでした。警察官が近くにいても、敢えて交番の近くにいてみても、です。よほど僕が好青年なのでしょうね閑話休題。
なぜ撮影自体が問題にならないか、ということについては判例がないので僕自身の考えを述べるに留まるのですが、前述した「撮る自由」においては撮影=公開ではないことが挙げられています。スマートフォンで撮影してそのままFacebookに上げてるような社会では理解しがたいかもしれませんが、写真家がスナップを撮影し、それを後々写真集やら写真展にする、というときは実に撮影した9割以上がボツカットです。そうじゃない人もいるかもしれませんが、ほとんどはそうです。僕なんかは下手なものですから9割9分9厘はボツです。ゆえに、自分が了承なくデジカメやスマートフォンで撮影されたからと言って直ちにそれを削除するように要求するのはむしろ作者の著作権を犯すことになると思うのです(基本的なことを理解していない人がいるかもしれないので言っておきますが、どんな写真でも著作権は撮影者にあります)。正しくは、公開しないように、と言うことですね。テレビの中継などでは撮影=放送(公開)になるわけですから、撮影自体が公開に直接関連づけられる印象を持つ人もいるでしょうが、実際のところ、ことスナップ写真に関して言えば撮影と公開には大きな隔たりがあるのです。それにも関わらず、街中で撮影することに関して人が映り込んではいけないかのように肖像権を理解し、そのように書いてあるサイトもあります。法律の専門家のサイトでしたが、頭でしか考えず、想像力のない、勉強が不足している証拠です。悪いサイトですね。だいたい、撮影自体が問題となるようであるならば年中人がいるような渋谷、新宿のメインストリート、全国の観光地では写真は一切撮ることが不可能になる訳ですが、実際には写真家のスナップに限らずとも、携帯電話のカメラにおいてもいくらでも撮影され、しかもFacebook等SNSにすらアップされている状態。ついでに言えば、撮影自体が禁止されるものであるならば、街中に無数にある監視カメラを止めるように要請することも可能なはずです。しかし、実際にそうした人はいないし(いたとしてもごく少数でしょうね)、誰もが監視カメラに自分が常に記録されているようなことはわかっているはずです。そして、監視カメラだって、悪意をもって公開される場合もあるし、法的な要請でそれが人々の目に触れる機会だってあるのです。また、監視カメラが適正に管理できているか、そもそも誰が管理しているのか、外部の人が知りうるのことでしょうか。
一方の公開されうる被撮影者の立場になってみましょう。人々はどの瞬間でも撮られるのを覚悟の上で外出しなければならないのか、 例えば許可なく自分が肖像の写った写真が公開されたとして、それを知り得なかった場合は公開を止めさせる手段はないのか、という疑問もわきます。そもそも撮影に自分が映り込んでいることに気づかないことすら少なくないです。そして撮影者もそれを利用して撮影もできます。例えば、大口径のズームレンズ。一般的なイメージだと望遠レンズに見える24-70mmのレンズで24mmで画面端にいる人は自分が写っているとはそのレンズを知らなければ思いもしないでしょう。それが超広角レンズともなろうならなおさらです。人を入れずに街中で撮る方が難しい。しかも、今やデジカメも高画素時代。遠くに小さく写っている人ですら拡大すれば個人が特定できる程度にはわかります。さらに追い打ちをかけると、だいたいの人ってデジカメや携帯で写真を撮る時ってワイ端を使う傾向があるようです(僕調べ)。ワイドを使うということは背景がかなり写る、ということ。とどめを刺せば、ちょっと昔は焦点距離35mm換算28mmとか35mmから始まっていたコンデジのズームは最近は24mmスタートなんてものも多いです。何言ってるかわからない、という人はつまり、思った以上に背景が写真に映るのだと考えてください。公開されうるのが怖ければこれではおちおち外も歩けない。家に引き蘢るのが一番ですね。観光地なんてもってのほか。今の時代、観光に行って一台のカメラにも映らずに帰宅できたらそれはもうNINJAと言っても過言ではないでしょう。
ここで原点に戻って考えてみます。何故人は写真を公開されるのを嫌うのか。これは本当に普段考えないことだからこそ、複雑に理由があると思います。自分の写真を積極的に公開する人もいますが、その人が知らぬ間に撮られた写真を同じ感覚で公開するような想像は難しいですね。元々写真に写るのが嫌だといって友人のカメラにも入りたがらない人もいますし、子供の中にはカメラってだけで写りたがったりもする子もいます。多くの人はこのこの両極端の間ですね。カメラと写真、被写体と撮影者の距離感です。見知らぬ撮影者が自分の空間に入り込んでくる、というのが被写体の感覚でしょう。写真によって自分自身は晒されるのです。自分を晒してもよい相手とそうでない相手がいるように、また、他人に自身を曝けだしやすい人、そうでない人がいるように写真は関係性なのです。写真は魂を抜く、とか、三人写った時に真ん中にいるとよくない、とかいった迷言が生まれたのも写真が持つ、晒すという能力によるものではないでしょうか。そして今やインターネットで公開は身近なものになりました。自分が晒される、ということに鋭敏になるのも当然の帰結です。しかも、撮影から公開までの間が被撮影者には全く明かされないのです。気づいたら晒されている。であれば晒される可能性にしか過ぎない撮影という行為に公開に近い感覚を抱くのも自然です。また、単にカメラに正対されるのが嫌だ、というケースもあるのですが、それはそれでカメラの形やデザインの話になるのでまた別の折にさせてください。
さて、ここまで延々となるべく中立の立場で述べてきたつもりですが、僕は撮る側ですし、自分の立場を明確にしたくもあるので撮る側からの意見をここからは書きます。極端な例から考えましょう。肖像権なるものが本人の意思以上に重んじられ、写真に許可をとらずに人が写り込むことが禁止されたとしたら(当然、法整備などがされたとしたら、その場合の許可、とは文面などの証拠に残す必要がありますね)、それはずいぶんと息苦しいものではないでしょうか。観光地などではパンフレットで見る以外に写真を得ることは難しいですね。街中では、特に都会では写真を撮ることはできません。
では、公開時に顔にぼかしを入れたとしたら、というのも一案です。なのですが、そうした写真に魅力がなくなるのはちょいと想像すればわかります。そもそも人の顔をまるで陰部か犯罪のようにぼかしをいれてまで写真を公開したいものですかね。ちょっと前に駅で数十年前の中野、という企画で古いモノクロ写真の町並みが紹介されていました。ちょっと面白かったのが、写真に写っている子供には顔にぼかしが入っていて、大人には入っていなかったのです。年代を考えると、なるほど、当時大人としてここに写っている人はおそらく存命ではないのだろうな、と。そして子供として写っている人はまだ存命(もしくはその可能性がある歳)なのでしょう。なんともお役所仕事。批判の隙も与えず、実にすばらしいです。確かに、亡くなった人は抗議しませんものね。とりあえず僕の感覚ではこれはやり過ぎだと賛同してくれる人が多いと思うんですけど、どうしょうか。その一方で、人が全く写っていない写真というのも全然ありなんですけど、そればっかりだと時代考察には向きませんね。人の姿や服装もまた時代の風俗。だから、そういう意味でも人が写らない写真のある時代があってはいけないと思うのです。ちなみに報道とスナップと、分けずにここでは語っています。肖像権を語る上では両者を分けるのは意味がないと僕は考えています。世間一般的な感覚は報道のカメラを少し特別視しすぎているように僕は感じます。それは僕が間違っていてもいいし,ここでの問題にはならないとして、僕は肖像権の濫用を怖く感じます。例えば、離婚した夫婦が肖像権を建前に、相手に自分が写っている写真は一切廃棄するように求めることも肖像権が行き過ぎればあり得ることです。限度を超えた肖像権は必ずどこかで著作権と衝突します。この2つ、どちらも等しく誰もが持ちうる権利ですが、著作権は法定化されているのに対し、肖像権は法律には見られない権利ということで違いがあります。著作権をいつなんどきも肖像権に優先しろ、とまでは言いませんが、よっぽどでない限り肖像権が著作権に觝触するのはよくないだろうと思います。よっぽど、とは盗撮とかそういうことですよ。肖像権関係なく盗撮はダメですけどね。
そろそろ話はまとめに入ります。街中でスナップを撮って、そこに写り込んだ人が特段の理由無しに撮影自体を止めることは難しいだろうと僕は思います(特段の理由てのがまた難しいと思うのですが)。公開は止められるかもしれませんが、いつもではないでしょう。webでの公開は申し立て次第で問題なく辞めさせることができるでしょうけども、小規模なギャラリーだと公開の範囲は大きくはないですからね。写真集で一般に流通するとしても、近年は肖像権が保護されるような面もありますが、必ずしもそうとは言い切れません。単に嫌だ、というだけで写真の公開をしないようにできるのか。ここにきて今回初めての単語を持ち出して申し訳ないですが、スナップに写った表情、顔、服装などは個人情報です。間違いなく。ただ、個人情報であることを認めた上で、それを保護するかどうかはまた別かなぁと思います。個人情報だから、ということが保護する直接の理由にはならないというのが僕の意見です。そして、あくまで撮る側としてですが、誠実であることが大事なのでしょう。むしろ、そうでなければいけない。カメラを持ってうろついてるだけで不審者扱いされかねないのですから。
ちょっと昔はカメラやらテレビやらに写るのがひとつ、自慢のような時代もありましたが、今やまったくそうではありませんね。それらが物珍しくなくなったか らか、あるいは肖像権というものが強く意識される時代になったからか。いずれにしろ、そうした意識というものは社会的なもので、個人ごとに差はあれども、時代や文化圏で全く異なることをぜひ皆様には意識していただきたいです。30年前と今ではメディアや、公開されることに対する意識は違うし、今日でも日本と欧米でもおそらく違うでしょう。また、日本の中でも地方ごとに若干異なる気もしますし、都市部と地方でも違うでしょう。同じ人でさえ時と場合で違う対応になるでしょう。そうした揺らぎやすいものに一義的な結論をつけるのは危険なことでもあります(それができずに、今は何でも規制のほうに持っていきそうな社会ですね)。ここまで延々と書いて結論無し、というのも拍子抜けで申し訳ないことなのですが、それならば僕はスナップは撮り続けるよ、という結局は意思表明であることを示したかったのかもしれません。前述したように、僕は撮る側なので撮る方に都合よい解釈を多少なりともしていますでしょうが、その理由は前文の通り。実はこの文章、昨年から書き始めて加筆をちょくちょくしたり、酒飲みながら一気に書いてみたり、寝かせてみたり(放置してしまった)で今日まで持ってきました。最初に書いた通り、思っていることは削らずに書いてきたらこんなものです。勉強不足はあるかもしれませんが、この文章は一旦閉じるとして、追記などが今後あればまた別に書こうと思います。最後まで読んでくれたのならば感謝します。ブログていうメディアでこんな長文とりとめなくてすいませんね。

2013-02-02 | カテゴリー 考えごと | タグ

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